紀元前59年にコンスル(執政官)の任期を終えたカエサルは、翌紀元前58年からプロコンスル(前執政官)としてイリュリア、ガリア・キサルピナ(アルプス以南のガリア)、ガリア・トランサルピナ(アルプス以北のガリア)の属州総督となった。ガリア・キサルピナはすでに属州ガリアとしてローマ支配下にあったが、ガリア・トランサルピナはいまだローマの勢力が及んでおらず、カエサルは5年間のインペリウム(軍事指揮権)を元老院より委ねられた。
当時のガリアは、スエビ族出身のゲルマニア人アリオウィストゥスがアドマゲドブリガの戦い(紀元前61年頃)でガリア人を破り、レヌス川(現:ライン川)に近いガリア一帯に勢力圏を形成し、更にガリア人を追いやってその支配領域を広げつつあった[1]。
ガリア・キサルピナとガリア・トランサルピナ、イリュリアの各属州の総督であったカエサルは、ゲルマニア人に圧迫される形で西方へ移住を始めた現在のスイスの山岳地帯にいたガリア人系ヘルウェティー族へ戦争を仕掛けて、アラル川の戦い(en)、ビブラクテの戦い(en)でこれを破り、元の居住地に押し戻した。
ヘルウェティー族を
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した後に、カエサルはハエドゥイ族らガリア人の要請により、ローマのガリア制覇への大きな障害となりつつあったアリオウィストゥス率いるゲルマニア人と戦い、プブリウス・リキニウス・クラッススの活躍もあってウォセグスの戦いで勝利を収め、ゲルマニア人をレヌス川(現:ライン川)の向こうへと追いやった。
アリオウィストゥスをゲルマニアへ追いやったローマに対して、スエッシオネス族のガルバを中心としてネルウィ族、アトレバテス族、モリニ族らのベルガエ人が一斉に反乱を起し、ベルガエ人はレミ族の町であるビブラクス[2]を攻撃していた。カエサルがレミ族支援の為にビブラクテ方面へ進軍すると、ベルガエ人はローマ軍を迎え撃ったがアクソナ川の戦いで敗北し、ガルバは人質をカエサルに出して降伏した。なおもボドゥオグナトゥス(Boduognatus)をリーダーとするネルウィ族やウィロマンドゥイ族らはローマへの抵抗を続けたものの、激戦の末サビス川の戦いで敗北して、ローマ軍に降伏した[3]。また、プブリウス・クラッススによってウェネティ族ら大西洋沿岸部族がローマに帰順した。
大西洋岸に勢力を持ち海軍力に定評のあった(前年にローマに一度は帰順した)ウェネティ族が同地区に駐屯していたローマ軍に反乱を起した。ティトゥス・ラビエヌスをベルガエ人やゲルマニア人、プブリウス・クラッススをアクィタニア人への抑えに回し、カエサルはウェネティ族討伐に向かいモルビハンへ到着した。海戦の経験に乏しいカエサル軍であったが、デキムス・ユニウス・ブルートゥスが率いるローマ軍がウェネティ族らの軍をモルビアン湾の海戦で撃破し、反乱を鎮圧した。
また、同時期に反乱を起したウィリドウィクスが率いるウネッリ族やアウレルキ族、エブロウィケス族らにはクィントゥス・ティトゥリウス・サビヌスが当り、プブリウス・クラッススが赴いたアクィタニア人の居住地区でもソティアヌス族等からローマに対する攻撃が生じたが、いずれの騒乱も平定した。
この年、カエサル、グナエウス・ポンペイウス、マルクス・リキニウス・クラッススの3者がルッカで会談して、紀元前55年にポンペイウス及びクラッススが執政官(コンスル)へ立候補すること及びカエサルのガリア総督の任期を5年延長することが内約された[4]。
レヌス川(現:ライン川)を渡る
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ゲルマン系でも弱小のウシペテス族とテンクテリ族がスエビ族に圧迫される形でレヌス川(現:ライン川)を越えてガリアへ侵入した為、カエサルはレヌス川の向こうへ戻るように警告した。交渉の為に一時停戦の約束であったものの、ゲルマニア人は反故にしてローマ騎兵へ攻撃を仕掛けたことから、ローマ軍はゲルマニア人を襲撃して多くを殺戮、捕虜とした。
その後、カエサルはこれに関ったゲルマニアへの牽制としてレヌス川に橋を架けてゲルマニアへ渡って、
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とテンクテリ族の残党を匿ったスガンブリ族の集落を焼き討ちにしたものの、森の奥深くへ陣を構えたスエビ族らとの戦いには臨まずに、ガリア側へ引き上げた。
ウェネティ族の蜂起の際にブリタンニア人がこれに加担していたことから、これを牽制する為、ガリアの守りをラビエヌスに任せ、カエサルはブリタンニアへ渡った。海が荒れたことにより軍船の一部が破損してしまったことや兵站の乏しさ、ブリタンニア人の騎兵と戦車による攻撃で苦戦を強いられたものの、兵の強さで勝るローマ軍がブリタンニア人を大破し、ローマ軍船の修理が済むと共にガリアへ戻った(ブリタンニア遠征、en)
なお、前年の「ルッカ会談」での密約通りに、ポンペイウスとクラッススは執政官に当選し、カエサルのガリア総督としての任期も5年延長された。また、紀元前54年よりポンペイウスはヒスパニア、クラッススはシリアの属州総督に就くことが決まった[5]。
ピルスタエ族の暴動を調停した後、カエサルは元々遺恨のあったハエドゥイ族のドゥムノリクスを誅殺した上で、再び船隊を率いてブリタンニアへ遠征した。前年同様に嵐によって船舶の一部に損害が生じたこともあって、ブリタンニア人はカッシウェッラウヌスをリーダーにローマに対して蜂起したが、ローマ軍は多くのブリタニア人を戦いで殺戮し、ブリタンニア人を降伏させた。
ガリアへ戻ったカエサルはガリア人監視の
ipo
もあって、レガトゥス(総督副官)を各地に冬営の為に派遣した。エブロネス族の地へはクィントゥス・ティトゥリウス・サビヌスとルキウス・アウルンクレイウス・コッタが派遣されたが、エブロネス族の族長アンビオリクスの計略に掛かって、サビヌスらが率いたローマ軍は指揮官共々壊滅した(アトゥアトゥカの戦い)。
アンビオリクスは他のローマ軍を攻撃するように焚き付けて、ネルウィ族はクイントゥス・トゥッリウス・キケロが冬営する駐屯地を攻撃したものの、キケロは持ち堪え、駆けつけたカエサル軍によってネルウィ族は敗退した。 トレウェリ族のインドゥティオマルス(Indutiomarus)がゲルマニア人も呼び込んでの蜂起を企てたが、不首尾に終わった為に単独で蜂起したが、ラビエヌス率いるローマ軍に敗北し、インドゥティオマルスは戦死した。
インドゥティオマルス戦死後もトレウェリ族はセノネス族やカルヌテス族らと共に抵抗し、アッコ(Acco)を首謀者として蜂起したがカエサルはセノネス族やカルヌテス族を降伏させた。さらに、カエサルはアンビオリクスを匿う姿勢を見せたメナピイ族へ攻め込んで降伏させた。
トレウェリ族へはラビエヌスを派遣し、スエビ族がレヌス川を越えてトレウェリ族へ援軍を送ったものの、ローマ軍はこれを撃破した。トレウェリ族を指導していたインドゥティオマルスの親族はゲルマニアへと逃れ、新たにキンゲトリスク(Cingetorix)がトレウェリ族の指導者となった。カエサルが再びゲルマニア遠征を行ったが、主な討伐対象であったスエビ族は森の奥深くへと退いてローマ軍を迎え撃つ姿勢を示したことから、カエサルも深追いはせずに、このまま撤退した。
カエサルはアンビオリクスへの追討戦を始めて、エブロネス族のもう一人の族長であったカトウォルクスは自殺したものの、アンビオリクスはアルドゥエンナの森(Arduenna、現在のアルデンヌ地方及びサンブル川からライン川に至る地域)へと逃れた。カエサルは輜重をアトゥアトゥカへ置いた上でクィントゥス・キケロに守らせ、海岸地方へはラビエヌス、アトゥアトゥキ族への抑えにガイウス・トレボニウスを派遣した。カエサルはエブロネス族に対して、他のガリア人やゲルマニア人が攻撃させるように仕向けたものの、逆にゲルマン系スカンブリ族はアトゥアトゥカのローマ軍輜重部隊を襲撃し大きな成果は無かった。カエサルはセノネス族らが反乱を起した件でアッコを処刑した。
なお、この年に三頭政治の一角であるマルクス・リキニウス・クラッススがカルラエの戦いで戦死、また前年にはグナエウス・ポンペイウスの妻でありカエサルの娘であったユリアも死去しており、マルクス・ポルキウス・カトー(小カトー)ら元老院の反
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の暗躍もあって両者の間に隙間風が徐々に差し込みつつあった。
ウェルキンゲトリクス像アッコの処刑によって大いに自尊心を傷つけられたカルヌテス族は、全ガリア部族が一丸となって反ローマに立ち上がるよう密談を重ね、そんな中でコトゥアトゥスやコンコンネトドゥムヌスらはケナブム(現:オルレアン)を攻撃して多数のローマ人を殺害した。
また、セノネス、パリシー、ピクトネス、カドゥルキ、アウレルキ等ガリア各族はアルウェルニ族のウェルキンゲトリクスにガリア軍の最高指揮権を委ねることで合意した。早速、ウェルキンゲトリクスはビドゥリゲス族やルテニ族、ニティオブロゲス族らをガリア連合軍に引入れるのに成功した。
以上はカエサルがローマ滞在中の出来事であり、カエサルはクラッススの戦死やプブリウス・クロディウス・プルケルの暗殺等による事後対応でローマ内の政争に足を取られていたことから、これらガリア人の動きに対して後手に回ることとなった。